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日本茶BANKが紹介するお茶の事

2023.12.26 Update

@栄西さんの茶(佐賀県吉野ヶ里町) その後⑤

#お茶会 #佐賀県 #修学院 #栄西 #脊振山

前回のコラムでは、栄西茶クラウドファンディング応援購入のリターンとして行った、「栄西茶畑ガイド付き探索」のご報告をさせていただきました。

その後も、日常的に行わなければならない茶畑の手入れや、草取りはもちろん、来年の新茶の時期に向けて、「栄西茶」の魅力を発信できるような、様々なイベントを行うべく、現在、会議を重ねています。

お茶摘み体験やお茶づくり体験、栄西茶の歴史勉強会、お茶の木オーナー制度・・・などなど、たくさんの案が出ています。

2024年6月2日(日)修学院で「栄西忌茶会(仮称)」開催予定!

栄西茶の魅力と歴史を、また、お茶の起源として後世に残していくべき重要なものであることを、皆さまに感じていただくべく、

2024年6月2日(日)修学院(背振山積翠教寺修學院)にて「栄西忌茶会(仮称)」を開催する予定です!

詳細については、現在、絶賛会議中&調整中ですが、内容が詰まり次第、またこちらでお知らせさせていただきます。

申込の受付に関しても、このサイト「日本茶BANK」で行う予定ですので、今しばらくお待ちください。

修学院とは?

6月2日に予定しているお茶会、茶道に精通されている方にも、あまり馴染みのない方にも楽しんでいただけるような会にしたいと考えています。

場所は、「修学院(しゅがくいん)」をお借りする予定。
この修学院、正式には「背振山積翠教寺修學院」といいます。

以前のコラムでも何度か、「背振山(せふりざん)」についてご紹介させていただきましたが、修学院は、背振山の下宮にあたるお寺です。

「栄西畑ガイド付き探索」でも訪れた、中宮の霊仙寺を中心に、山岳仏教の聖地として栄えた背振山。

かつては、大小様々な寺院や、修行僧の住む建物が散在し、その数はなんと1,000を超えていたといいますが、現在では、この「修学院」が一大霊場の歴史を今に伝える唯一の寺院となってしまいました。

修学院HPより

背振山の歴史~草創~

修学院さんのホームページに、背振山と呼ばれるようになった由来などについて書かれた箇所があるのですが、とても興味深いものだったので、簡単に紹介させていただきます。

●欽明天皇13年(552年)、紫雲が棚引く山の頂上に辨財天(べんざいてん)が降り立ったところ、二頭の給仕の龍が、背を振って喜んだという伝説があるそうです。この伝説が、「背振山」と称される由縁になったのだとか。

ちなみに、辨財天とは、皆さまご存知の、「弁天さま」。
琵琶 (びわ) を弾く天女の姿で表されることが多い神さまです。
辨財天は、インド神話に出てくる河川の女神で、仏教・ヒンズー教に取り入れられています。

●和銅2年(709年)、元明天皇より勅命を受けた湛誉上人(たんよしょうにん)により背振山が開山され、山の中腹に「誉朗寺(よろうじ)」が建立されました。

のちに、現在の福岡県にあたる筑前国と、現在の佐賀県と長崎県にあたる肥前国にまたがり、上宮「東門寺(とうもんじ」・中宮「霊仙寺(りょうせんじ)」・下宮「積翠寺(せきすいじ)」の三ヶ所を中心に背振一山が形成され、比叡山・高野山・英彦山と並ぶ「山岳仏教の聖地」として栄えました。

この、下宮「積翠寺(せきすいじ)」というのが、現在の修学院のことです。

修学院HPより

背振山の歴史~盛衰~

●伝教大師(最澄)・弘法大師(空海)・慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)といった、天台宗の大師や、性空上人・皇慶阿闍梨・栄西禅師などの名高い僧侶が、入山し修行していた背振山でしたが、この時代の数々の戦乱の中で、寺が所有する領地がじょじょに失われていきました。

●さらに、天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉公の検地、つまり世に言う太閤検地により、寺の領地が没収され、僧たちもそれぞれにこの地を離れ、背振一山は荒廃。
霊仙寺内の、水上坊・五戒坊・乙護法堂を残すのみとなってしまいます。

背振山の歴史~復興~

●幸いにも、水上坊に辿り着いた仁周(にんしゅう)法印と、五戒坊の玄純僧正により、背振の法灯は絶やすことなく守り続けられていました。

●仁周法印は、天正年間に鍋島家に仕えた際、その優れた才能を秀吉公に認められ、鍋島直茂公(佐賀藩祖)から厚い信頼を得ました。文禄2年(1593年)、直茂公が朝鮮に出兵している間、佐賀城を守ることを任された仁周法印は、毎日、水上坊から佐賀城まで、五十里(五十里=約195Km)の道を馬に乗って通い、無事任務を果しました。

●慶長元年(1596年)、鍋島直茂公の助力によって、上宮に弁財天堂が建てられ、中宮に水上・多聞・土橋・石上・中谷・香善・萬善・北谷・道場・五戒の十ヶ坊を再興。慶長5年(1600年)には下宮の積翠寺が再興されます。

●積翠寺に京都の曼殊院門跡(皇室一門が住職を務める門跡寺院)より「修學院」の院号を賜り、これより「積翠寺」は「修学院」と称するようになります。背振一山の中心も、中宮の霊仙寺から、下宮の修学院へと移行していきました。

栄西さんのお茶と修学院

宋から帰国した栄西さんが、背振山に茶の種を蒔いたのが1191年。

数々の戦乱があった戦国時代(1467年 ~1615年)。
太閤検地で多くの寺院が衰退した天正年間(1573~1592年)。

長い歴史の中で、多くの危機があった中、数々の僧侶や地域住民の手によって守られてきた、背振山の信仰や寺院と同じく、霊仙寺の石上坊(いわかみぼう)の庭にある栄西さんの茶畑も、守られてきたということ。

かつては「背振千坊」と称された、山岳仏教の聖地に唯一残る「修学院」。
同じく、数々の危機を乗り越えつつも、今、再び存続の危機に瀕している「栄西茶」。
だからこそ、栄西茶のお茶会は修学院でやることに意味がある!修学院でやりたい!と考えています。

霊仙寺・石上坊、栄西さんの茶畑

おわりに・・・

さて、今年、2023年の日本茶BANKコラム更新は、これが最後となります。
来年も、お茶に関するアレコレを発信していきたいと考えていますので、お楽しみに!

年末年始、家庭や旅先でゆっくりされる方も、外のお仕事や家庭のお仕事でゆっくりできないという方も、日本茶を飲んで、ほっと一息つく時間をつくってもらえたら嬉しいです。

皆さま、良いお年をお迎えください。

※参考:背振山積翠教寺修學院公式ホームページ

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