1440年、長崎県平戸に渡ってきた唐の人が、嬉野町不動山(ふどうやま)の皿屋谷(さらやだに)に移住し、陶器を焼く傍らに茶を栽培したのが、嬉野茶の始まりとされている。
その後、1504年に明から渡来した紅令民(こうれいみん)が南京釜とともに釜炒り茶の製法を伝えたとされる。
江戸時代初期から本格的な栽培が行われるようになり、嬉野茶が産業化し今日に至っている。
嬉野では、日本で主流となっている“蒸し製煎茶”の他に、この地の伝統である“釜炒り茶”がつくられている。
※補足:
釜炒り茶・・・蒸して作る煎茶と違い、直火で熱した鉄釜で炒って作られる。“蒸し製煎茶”よりはる
かに長い歴史を持つが、機械化が難しく、大量生産することができないため、現在
では佐賀県・熊本県・宮﨑県の一部地域でしかつくられていない稀少茶(現在、日
本茶は蒸し製がほとんどで、釜炒り製は1%を下回るといわれている)
※参照元:
西九州茶農業協同組合連合会
https://charen-ureshinocha.com/
奈良~平安時代(710~1192年頃)、中国に渡った遣唐使などが、日本に始めてお茶を伝えたと推定されるが、平安時代に入ると茶の飲用は一時途絶えた。
1191年(平安時代末期)、栄西禅師(えいさい/ようさい ぜんじ)が、宋(現中国)から
持ち帰った茶の種を、佐賀県と福岡県の県境に連なる脊振山(せぶりやま)中腹の、霊仙寺(りょうせんじ)石上坊(いわがみぼう)の庭に蒔いた。
これが日本のお茶栽培の始まりとされており、この地は「日本茶栽培の発祥の地」とされている。
また、栄西はその後、茶栽培や茶の薬効を国内に広めていき、日本でのお茶の飲用文化を復活させた。
このように、脊振山山麓(現、吉野ヶ里町東脊振地区)と日本のお茶の歴史には深い関係があり、日本茶栽培の発祥の地として、古くから茶栽培が行われてきた。
この地で生産された茶は、石上茶(いわがみちゃ)と呼ばれ、地域に親しまれてきたが、高齢化により生産者数は減少していった。
1990年代、栄西が脊振山にお茶を伝えてから約800年という節目を迎えたのを機に、吉野ヶ里町(よしのがりちょう)としても茶を盛り上げようと、この地に伝わるお茶を復活させ、「栄西茶」と名付けた。
※補足:明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい)
1141~1215年 平安後期~鎌倉時代の僧で、日本臨済宗の開祖。備中吉備津神社(岡山県)の社
家に生まれ、比叡山で出家、1168年から2度宋に渡り、禅宗を学んだ。
宋からの帰国後、日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著すなど、日本にお茶の効能や茶生産
を広めたことでも知られており、茶祖ともいわれる。
※参照元:
JAさが
https://jasaga.or.jp/agriculture/nousanbutsu/eisaicha
ANAのふるさと納税 ふるさとSTORY
https://furusato.ana.co.jp/promotions/story/saga_yoshinogari.html